「はじめてのひと。」- 妄想会議

はじめてのひと。

昨日からの雨が今朝になっても続いていた。降ったり止んだり、鼠色のぐずぐずした天気がいまのオレの心模様のようだ。こんな曇空、早くどこかに行ってくれないかと強く願う。

「巻島さん?」
2時間目が終わった休み時間、1年生の教室のある階の廊下で声をかけられて巻島は振り返った。
「センパイ、えらい目立うとりますなぁ」
玉虫色の緑の髪は何処にいたって目立つ。3年生たちにとってはもう空気のように慣れたものだが、巻島の事をよく知らない1年生の生徒の中にはむやみに好奇心の視線を向けてくる者もまだ多い。
「……なんだァ、鳴子かよォ」
期待していた者では無かったので巻島は明らかにガッカリした表情を見せた。
「なんだァ。は無いですやん……カワイイ後輩目ぇの前にして」
自分で言う奴は可愛くねーショ、バーカ。と肩をすくめ、からかうように息を吐く。
「小野田くんなら今日ガッコ来てませんよ」
口に出さないうちに目当ての名前を言い当てられて、巻島はギョッとした。
「な、なんで小野田探しに来たって事、知ってるんショ……」
――だって、センパイ、正直スカシやワイに興味ある感じ無いですやん?そやから『小野田くんかな』って予想位はつきますわ。名探偵振りを気取った鳴子は、今日の午前中に坂道から【今日は休みます】というメールを受け取ったことを巻島に伝えた。
「小野田くんに何か用があるなら、本人に直接メールか電話したらええんやないです?」
と鳴子は至極当たり前のことを指摘した。
「そうじゃなくて……直接会ってちょっと話がしたかったんショ」
まァ、大した用事じゃねーんだけどな……ありがとよ、鳴子。巻島はそう言うと廊下を曲がり、のろのろと階段を降りた。

暑い夏をようやく終え、涼しい秋に代わった季節の校舎の片隅は冷たくひんやりしている。他に人のいない静かな階段の踊り場で、携帯をスライドさせて開け、住所録から坂道のアドレスを探し当てた。メール画面を呼び出してしばらく眺める。何か書こうと思ったがそのまま閉じた。その後も巻島は携帯の画面をずっと眺め続けた。このまま待っていれば向こうから着信が来るような気がしたのだ。
しかし、彼の期待とは反して携帯は沈黙したままだった。授業開始のチャイムが校舎に鳴り響き、巻島は諦めて携帯をポケットに片付けた。

*****

昨日の日曜日。巻島と坂道は当初の予定通り、二人で房総半島をロングライドしていた。天気予報はぎりぎり【曇り】ということで決行したのだが、変わりやすい秋の空、この所の不安定な天候が突然の雨をもたらした。道半ばで予想以上に濡れた二人は道中にあった寂れたコンビニの廃屋の軒下を借りて雨宿りをした。
「……降られちゃいましたね」
「天気予報、役に立たねーっショ」
チッ、やっぱりオレの勘の方を信じるべきだったナ……。頭を掻きながらふて腐れる巻島に、長い人生、予想外ってのも有りだと思います。と坂道はいまの状況を楽しむように呟いた。
「どうせその台詞、何かのアニメっショ……元ネタは」
「……えっ、どうして判ったんですか?」
魔法のように心の中を言い当てられて坂道は驚く。
「クハ、オレのスルドい勘を舐めんなショ」
ふたりで顔を見合わせて、はは、と笑った。

いつまで経っても雨は止まなかった。むしろ、強くなっていくように感じた。このままでは本当に帰れなくなってしまう。多少濡れても人間は風邪をひくくらいだが、機材など高価なものはできればあまり風雨に晒したくはない。しばらく黙っていた巻島が口を開いた。
「ウチ、寄ってくショ」
「……はい。」

二人はふたたび雨の中を駆け出した。

*****

3時間目も4時間目も授業に身が入らぬまま終わってしまった。今日は何もかもが全戦全敗だ。
「巻島ぁ?」
お前、メシ喰わないのか。ひとり黙って教室を出ていこうとする巻島を田所が止めた。田所と巻島の2人はこの教室でいつも一緒に昼食を取るのでこの時間に教室を抜けることはイレギュラーな行動だった。
「なーんか、喰う気ねえショ」
「病気か」
そんなもんかもナ。クハ。巻島は静かにドアを開けた。

図書室の棚の間、渡り廊下の陰、繁みの小さなバラ園のベンチ、校庭の隅、校舎裏と何処に行っても先客が居た。ひとりになって色々考えたかったが昼間の学校はそういうことには不向きのようだ。屋上でも使えれば……と思うが、今時は漫画やドラマのように屋上を開放している学校はない。それに、屋上に行けば余計不埒な事を考えてしまいそうだった。夢遊病者のように校内をフラフラさまよった挙句、霧雨だった雨足が強くなってきて、巻島が結局辿り着いたのは自転車競技部の部室の中だった。

たまに部室で昼飯を取る者もいるが、今日は幸い、他には誰もいなかった。巻島はパイプ椅子を引き昼飯用のサンドイッチとジュースを手にしたが、包装を開けるのが戸惑われた。食欲がない。これではほんとうに病人のようだ。諦めて机の上にサンドイッチを放り出す。部活を引退した今は朝練をしていないので以前の自分に比べればまだ空腹度は少ないが、己の欲を満たす行為を取ることがなんとなく嫌だった。

もう一度携帯を取り出す。今日はこの画面を穴が空くほど見つめているな、授業中にも休み時間にも。自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。同世代の人間と比べて巻島は自分からメールを書くことも少なく、通話もあまりしない方だ。しかし、一方的に待ち続けるのはオレの性格でもねぇショ。と再びメール画面を開いた。文字を入力するのは決して苦手ではない。が指の進みはのろのろと遅かった。

【昨日は、あれから大丈夫だったか?今日休むって鳴子から聞いて、】

ここまで打ち込んだ所でもう一度指が止まった。書きかけのメールを破棄して携帯を閉じる。いまさら他人行儀なメールを送るのも何か言い訳じみている。巻島は細く整えた眉をひそめた。

*****

「お風呂、どうもありがとうございました。服も貸してもらっちゃって……」
オレのお古だけど、サイズ合ってる?あっ、大丈夫です。湯を浴びてほんのり紅くなった坂道の項から白い湯気が立っていた。
「……こっち来いよ。そこに寝て」
えっ何ですか、急に。坂道は口端を上げて笑った。
「マッサージするんだよ。帰りスピード上げてきたから筋肉凝ってるっショ。まず手本見せてやるから後で交代な」

何か、くすぐったいです。
おい、急に頭上げんな。ぶつかるっショ。


………………。


*****

昼休みが終わり、5時間目のチャイムを聞いた後も巻島は部室に留まり続けた。それほど得意ではない数学の時間は自分の受験には直接関係ないし、今は他のことを考えられる余裕も無い。それならここに居たほうがマシだ。ハッキリしない頭でガラス窓からぼーっと外を眺めていた。再び小降りになってきた雨と一緒に、静かな空気の中にこのまま溶けて消えてしまいたいと願う。身体は更に重くなるばかりだ。背当てに体重をかけると、錆びたパイプ椅子がギシッと音を立てる。常に緩め気味にしているネクタイが首筋を締め付けてくるような気がしたので、シュッと外して胸ポケットに乱暴に折りたたんで入れた。

もう一人の冷静な自分が「おい、マジで熱あるんじゃねーのか、オレは」と呼びかけてくる。窓から差し込む薄紙を挟んだような光を受けることすら嫌になり、目を閉じて顔を両手で覆うと、ひとつ深いため息をついた。

……気のせいショ。オレは……間違ってない、何も。

「きのう、あれだけ激しいことをしておいて?」

心の底から泡のように沸いてきた暗い声に苛立った巻島は足元に落ちていたスプレー缶を思わず蹴り飛ばした。金属の缶はガッ、と甲高い音と共に壁に衝突した。缶の悲鳴を聞いてハッと我に返る。
「オレは……何してんだ……くそッ」
握りこぶしに力を込める。伸びかけた爪が掌にギリギリ食い込んで痛い。

――昨日、自分がした行為にはどうしたって言い訳はできない。
それでも……ただ、声が聞きたかった。いま、どうしているか知りたかった。携帯を取り出し、必死の思いで坂道のアドレスをもう一度呼び出すと

【大丈夫か。連絡くれ】

それだけ書いて祈りを込めるように【送信】ボタンを押すと、巻島は糸が切れたように机の上に突っ伏した。



「お、おはようございます……」
その直後。部室の入口から聞き慣れた声が流れ、眠る間もなく巻島は現実に戻された。
「……それとも、もうお昼過ぎなので『こんにちは』ですかね?」
いつもと何も変わらない、マイペースな様子でごく自然に坂道は巻島に話しかけ、近づいてきた。
「さ、坂道……。どうして……ショ。」
いま、ここに居るはずのない者がいる。目は覚めている。夢じゃない。亡霊を見た時のように巻島の瞳が大きく開いた。同時に、胸のなかの器が壊れたように鼓動が増す。鼓動の数を悟られないよう巻島は焦って坂道に話しかけた。
「お前、今日休むって聞いたっショ。鳴子がそう言って……」
「あ、あのですね。今朝、学校にいく前に母さ……母が足を怪我してしまって。『痛ぁーぃ。絶対骨折してるわー!』って言うから一緒に病院まで付き添って行ってきたんです」
結局、骨折はしてなくて軽い捻挫だったんですけどね、母さんいつも大げさなので。軽く済んでよかったです。えへ。と坂道は子どもっぽく笑った。
「それで、病院のほうが思ったより早く終わったので、鳴子くんに連絡したとおり授業は休んでしまったんですが、自転車にだけは乗りたくて」
だから今ここに来ました。と坂道は言った。今から教室行っても大遅刻ですから。でも。
「まさかここで……この時間に巻島さんと会えるなんて、思いませんでした。怪我の功名でしょうか。あっ、でも、ボクが怪我したわけじゃないけど……」

心の底に渦巻く感情がぐいと巻島の足を進める。伸ばした長い手が小柄な肩を掴んで揺さぶった。
「坂道。お前の身体のほうは、大丈夫なのか?」
巻島の疑問を受けて、坂道の全身に一瞬で血が駆け巡り紅潮した。しばし黙りこんでしまった後、照れたまま坂道は微かに笑顔を浮かべた。
「……ボクって、こう見えてけっこう頑丈なんですよ」
「ごめん、悪かった坂道……いくら何でも、あんなことを……オレは……」
昨日のオレはどうかしていた。自分の欲を止められなかった、お前を堕落させてしまった。深く頭を下げ、崩れ落ちた巻島は坂道の手に迷い子のように縋り付いた。

「昨日は。びっくりしたけど、嬉しかったんです……。ああいう事になって」
坂道はごく穏やかに言葉を紡いだ。――心のどこかで、いつか、こうなる予感はありました。ボクの勝手な錯覚かな?とも思ってたんですけど、気持ちが通じてた事が分かって、ほんとうに、すごく嬉しかったんです。
「……あんな無茶なことは、もうしないっショ。お前を汚すのは、もう……。だから……」
許しを得る悲痛な言葉と、縋る手に力が込もる。
「そんな顔しないで下さい。見てるこっちも悲しくなっちゃいますので。ボクも望んでいたことですから。それに、ボクは……」
坂道は息を一つ置き、毅然とした表情で告げた。

「――ボクは、巻島さんとなら汚れてもいいんです」

赦された言葉に目を見開き、おもわず巻島は目の前の愛しい者を抱き寄せた。小柄な身体は腕の中に容易に収まってしまう。
「ありがとう……ありがとう、坂道。……好きだ」

人の身体ってすごく温かいんですね、巻島さん。……ボク、きのうはじめて知りました。坂道は花のように柔らかく微笑んだ。

【END】