「贈り物」- 妄想会議

贈り物

桜はまだ咲いていないが、日を重ねるごとに少しずつ暖かくなる空気が春の訪れを兆していた。特にハプニングもなく粛々と進行した総北高校の卒業式が無事終わり、クラス単位のお別れも済んだ3年生がバラバラと教室を離れていく。思い出のこもった校舎を廻る者、友との別れを惜しむ者、遅い受験のために早々と帰宅する者などそれぞれの風景があった。



「それでは、始めまーす。乾杯!」
式の後、自転車競技部では簡素な送別会が開かれていた。次期部長に選ばれた手嶋が張り切った結果、狭い部室ではなく空いた教室を借りた場での会合。別れの祝辞の半ばで涙声になったチーム2人と鳴子が田所に抱きつき別れを惜しみ、金城は今泉に今後の心得を教授している。
皆がそれぞれ盛り上がる中、ひとり巻島だけがポツンと手持ち無沙汰な様子だった。
(……なんで坂道、来てないっショ???)
紙皿に乗ったビスケットをパクついていた杉元に尋ねてみると
「えっ小野田くんですか?式の時にはいたんですけど、その後で『忘れ物取りに行く』とか?言ってましたけど……来ないなんておかしいですよね。僕は式もお別れ会もちゃんと来ましたけど、コルナゴちゃんに乗って!」
という返事がかえってきた。
(お前の話は別にどうでもいいっショ……)と内心薄情なことを思い浮かべながら杉元の話を適当に受け流し、巻島は肝心の人物が来るのを待っていたが、予定の時間が過ぎても坂道は送別会の教室に姿を表さなかった。正直あまり頭はよろしくないが、愚直というか素直な性格の坂道が今日この日に来ないというのはどうもおかしい。どこかで倒れていたり、怪我していたり、何かトラブルでもあったのか……と幼な子を心配する母親のように巻島は坂道のことを気にかけたが、とはいえ高校生なのだからそこまで心配することもないだろうヨ。と、邪推を頭の中から振り払った。気を取り直して巻島は他の一年生にも声を掛けてみたが、いまいち要領を得ない答えしか出てこなかった。

――来ない理由があるとしたら心境的な何かなのだろうか。
先日、受験が終わって久しぶりに練習に付き合った時「巻島さんたち、本当に卒業しちゃうんですよね……」と坂道から寂しそうに告げられたことが心の隅にひっかかっていた。勿論、卒業してこの場を離れることに一抹の寂しさは感じるけれど、第一志望だった都内の大学に合格した巻島は、これを機に親元を離れ新しい環境で将来に向けて具体的に動けることを有難いと思っている。同じクライマー同士いちばん親しんでいる後輩に節目の良き日を祝って欲しいという気持ちがあった。

「……巻島さん。この教室もう閉めますんで、まだ残るなら部室の方移動して下さい」
手嶋から声をかけられて巻島は浮世に気持ちを戻した。
「あ。ああ、了解っショ」
「先輩たちがいなくなると、ここも寂しくなりますよ」
手嶋は世辞を言った。
「お前はちゃんとデキるから何も心配してないっショ。ところで今日、坂……小野田がどうして来なかったのか知ってる?」
「特には聞いてないですね。杉元が何か言ってましたけど、今日のこの会は一応自由参加なんで」
確かに、来ないのはおかしいですけど、小野田は小野田で何か思う所があるのかも。あいつ、若干世間のジョーシキから外れてるところありますし……と手嶋は言いながら、手際よく教室の鍵をカチャリと閉めた。



――もうちょっとだけ待ってみるっショ。そう思って、巻島は通い慣れた部室にやって来た。
他に誰も居ない部室は音もなく静まりかえっている。金城が部長だった時は部員各自の自主性に任せる方針だったので、ロッカーの位置によって混沌の度合いが違っていたが、最近の部室は整頓好きな手嶋部長の仕切りらしく、全体的に小奇麗になっていた。3年生が引退してもロッカーだけはそのまま使用していたので荷物の完全撤収を終えたのは割と最近の話。
でも、今日でこの思い出が詰まった部室とも遂にお別れだ。巻島は自分の隣だったロッカーの扉の、1年生の時に田所と大喧嘩した時に油性ペンで落書きした「クマのバカ」という大人げない文字を指でなぞった。次に入ってくる奴らもここでまた色々やらかすんだろうなァ、と想像しながら、自分が過ごした日々を微笑ましく振り返ると自然と口角が上がった。
様々なことがあったけどオレの3年間はおおむね楽しかった、と巻島は思う。力の拮抗した、心根の爽やかな好敵手と、練習で揉まれることで通じ合ったチームメイトと後輩たちに恵まれ幸せな高校生活だった。2年次のインハイでの苦い思いはあるが、あの後に全てやりきったので後悔はない。
……ま、後悔したって満足したってここにずっと居られる訳じゃねーしナ。現実主義的な己らしい感想を巻島は浮かべた。
もう一度惜しむように部室の中を見渡すと、ふと、1年生のロッカーが目に入る。
(そうだ。坂道のロッカー見れば何か判るかも……?)閃いた巻島は坂道の使っているロッカーの前にスッと立ち止まった。この部室は校内の外れにあり部員以外の人間はまず立ち入らない場所なので、部員によっては鍵をかけない者もいる。坂道もそうなら、ロッカーの中を見ることはごく簡単だ。他人のプライバシーを覗くのは良くない事だしそもそも巻島のポリシーではないが、こういう場合ならまぁ、ちょっと仕方ないっショ。……と自分に言い聞かせ、息をひとつ呑むと、秘密の扉にそっと触れた。

「あーっ、そこは、見ちゃダメです!」
急に飛んできた言葉に反射的に手が止まる。ソウデスヨネ。普通。怒られちゃうっショ。……と思いながら、その声が聞き慣れた声の持ち主だとハッと気づいて振り返る。
「……坂道ィ」
「ロッカーの中はダメですー、巻島さん」
部室の入口に、待ち望んでいた人物が立っていた。急いで来たらしく、坂道はいくぶん着乱れた制服に肩を上下させている。



「お前さァ、なんで送別会来なかったんショ……」
巻島は後頭部を掻きながら坂道に問うた。
「ご、ごめんなさい。どうしても取りに行きたいものがありまして。そうしたら間に合わなくて」
まぁ、座れっショ。ここまで走ってきたんだろ?巻島が部室の隅に適当に置かれているパイプ椅子を手で示して、二人はそこに腰掛けた。メンテナンス用オイルの油臭さと男子高校生の汗のかけらが混ざり、籠っている部屋には独特なにおいが漂っている。このにおいに包まれるのも今日までだと巻島は過ぎた日々をまた懐かしく感じた。
「巻島さん、今日は卒業おめでとうございます」
送別会行けなくてごめんなさい……。坂道は悲しげな瞳で謝った。
「これ買ったらすぐ行くつもりだったんですけど、近所のお店が閉まってて。なので、他のお店を探してたら遅くなってしまって」
「いったい、何を買うつもりだったんショ?」
送別会よりも坂道が優先させたかったものが何なのか、巻島は知りたかった。「お前はほんと、興味無い物の事はちっとも覚えるつもりが無いな」と金城から呆れて指摘される位、どうでもいい他人の事には関心を持たない自分だが、それは単に指向性の違いがあるだけで人並みの好奇心は持ち備えていると思う。
「……えっと、これです」
坂道が巻島の前にさっと差し出したのは小さな花束だった。

オレンジ色の大輪の花を1本中心にして、小さな白い花と黄色い花がそれぞれ2、3本と引き立て用の緑色の葉がいくつか束ねられた、坂道のあまり大きくない片手に収まるささやかな花束。花の色とよく調和したパステルイエローのペーパーが、ざっくりとした茶色の粗い紐で結ばれている。気の利いた花屋の店頭で見かけるタイプで、硬貨だけで買える値段にしては洒落た印象のものだ。
坂道はその小さな花束の持ち手をぎゅっと握りしめ、巻島のほうに差し出すのと同時に堰を切ったように語りだした。
「ボクは巻島さんから、自転車で走る楽しみや心がけも、お守りも、大きな思い出も、お返しできないくらい沢山のものをもらいました。なので、何か記念に残るものを返したいと思ってずっと考えてたんです」
けど、お金持ちの巻島さんが喜ぶようなものはその辺に散らばっている物じゃきっとぜんぜん敵わないから……さんざん考えた末に、巻島さんの家に行った時に玄関で見かけた大きなお花を思い出したんです。と坂道は言った。華やかな人には豪華な花が似合うかなと思って。……でも。
「お花って初めて買ったんですが、結構高いんですね。ボク全然相場を知らなくて。いつも趣味に使っちゃうから、自由に使えるお金が少ないので、コレくらいのものしか買えなくて……最初に行ったお店も閉まってて」
巻島の母親は花好きで、家にもアレンジメントを飾ってあることが多い。自分が普段見ている花と比べてしまえば、坂道の持ってきた花束は明らかに見劣りするものだ。しかし、なるほど聞いてみれば不器用で、一度思い込んだら他の事が見えない坂道らしい話だ。値段や大きさとはまったく関係なく、送別会をサボってまでわざわざ買いに行ったまっすぐな気持ちが嬉しいと巻島は感じた。

「こういうのはサ……値段より、気持ちが大切っショ」
ふと思いついて、坂道から手渡された小さな花束を巻島は制服のブレザーの胸ポケットに差し込んでみた。
それは、制服のポケットになんとか入る程度にささやかな大きさだった。
「わっ。やっぱり、素敵です」
胸に似合った花束を見た坂道はキラキラした瞳を見せて感激した。
「巻島さんは美人さんだからお花が似合うと思ったんです!」
「…………美人、ねェ。」
クハ。そんなこと言われたのはオレの人生初めてっショ。巻島は苦笑いを浮かべて長い髪を後ろに梳いた。
「それじゃお返ししないとナ」
巻島は胸の花束から白い小さな花を一本、束が崩れないように気を使ってそっと抜くと、椅子から立ち上がって坂道の耳の上にかかる短い黒髪にその花を刺した。
「わっ、くすぐったいです。でも、ボクには花なんて似合いませんよ」
「これでお揃いっショ。オレもお前にはいろんな物をもらったから……」
「いろんな物?何もあげてません、この花くらいしか」
「……お前にも、きっとそのうち判るっショ」
もうすぐ、新しい奴らが入ってきて、今度は坂道が先輩になる番が来るっショ?そしたらそいつらに色々教える事もあるし、後輩だってお前にいろいろ教えてくれるぜ。巻島はいつになく優しく、慈母のような眼差しで後輩のほうを見た。
「でも……巻島さんが居なくなるのはやっぱり寂しいです。寂しいくらいならボクは先輩なんてならなくても……」
巻島の方をじっと見ながら、坂道は唇をぎゅっとかみしめて眉を寄せている。
「正直、この前まで3年のみなさんが卒業するって実感無かったんですけど、空っぽのロッカー見たら、もう先輩たちは居ないんだ……と思ったら悲しくなってきちゃ っ て」
大きな瞳からすうっと一筋のしずくが流れた。ああ、もう。我慢してたのに……
「もう一緒に走れないんだ、って思っちゃうと……」
ダメダメ、泣いちゃダメだよ……坂道は自分に言い聞かせるようにダメダメと呟くが、涙が止まらない。
「――坂道ぃ。お前は、もうオレと一緒に走れないって思ってる?」
巻島はひどくシリアスな表情で坂道に尋ねた。窓から入る逆光でわずかに影になった巻島の、聖人のようなシルエットがこんな時だけどきれいだ、と悲しみの渦中にいる坂道は感じた。
「だ、だってそういう事でしょう、卒業するって」
「卒業したら切れてしまうような、オレたちがそれだけの関係だったと思ってるのか?オレは、そうじゃない……ショ……」
思わぬ所からこぼれ落ちた真っ直ぐすぎる言葉に、発した自分でも気恥ずかしさを感じて巻島の頬が上気する。温かい感情を受けた坂道は、嬉しさと悲しみの感情がごっちゃになって、何が何だかよく分からなくて、こみ上げるものがちっとも止まらない。坂道はしばらくの間しゃくり続けた後、やっと言葉を絞り出した。
「そ、そんな事ないです……。卒業しても巻島さんはボクのたいせつな、大切な先輩です」
「……オレは、お前が居て本当によかったと思ってるっショ」
一気に言うと巻島は坂道の上体をぐいと引きあげ自分に寄せて、背中に手を回した。
「な、なんか恋人みたいで恥ずかしいけど、「抱きしめ効果」っていうのがあって、こうすると。誰でも安心して落ち着く……って聞いたっショ」
――えーと、なんだ。だから……その。落ち着くショ、坂道。
さっき急いで走った時みたいに心臓の鼓動を感じる。腕の中の暖かさと一緒に、巻島の心遣いの大きさに坂道は耐えられなくなってまた少しだけ泣いてしまった。形には見えないけど、本当にいっぱい色々なものをもらったんだ……。お互いがかけがえのない、尊い存在だということを二人は強く、つよく感じた。
「いつでもまた一緒に走ろうぜ。そうだナ、5月のヒルクライム大会に出ようか」
最後に坂道の背中をぽん、と励ますように軽く叩く。
「はい、はい。出ましょう。一緒に走りたいです!ボク、巻島さんのダンシング好きです!」
坂道、これで涙拭くっショ。さすがにそのままじゃ外、出られないだろ?極彩色の抽象柄のハンカチを巻島が差し出すと、坂道はメガネを外してぐしゃぐしゃになった顔を拭いた。ちーん。いつもの癖でつい鼻水までかんでしまう。
「あっ、ごめんなさい!今度ちゃんと洗って返しますので」
「……5月に会った時でいいショ」
はい、わかりました!巻島さん!――泣いたカラスがもう笑った。



「用事は終わったみたいだな」
無事に別れの挨拶を終えた巻島と坂道がようやく部室の外に出ると、ドアの横で金城と田所がプレハブの壁にもたれて巻島を待っていた。
「あ……。待たせて悪かったショ」
そういえば送別会の後に卒業生3人で昼飯を食べに行く約束をしていたのだった。空気を察したのか「お先に失礼します」と坂道は巻島より先に一歩踏み出し、校門の方にさっと走り去っていった。
気のせいだろうか、巻島には金城と田所がニヤニヤしているように見える。
「……さてはお前ら、外で盗み聞きしてたショ」
ジトリとした視線を二人に向けた。
「盗み聞きなんて失礼な。オレ達は何も聞いてないよなぁ、金城」
「そうだな、麗しい師弟愛の話なんて全然知らないな。ハハ」
「……。」
巻島は二人の横に並んで同じように一旦壁にもたれかかると、膝を折ってずるずるとしゃがんだ。ふぅ……と大きな仕事をひとつ終えた時のような深い息をつき、軽くうつむく。
「どうした、巻島」
「いやー、オレも遂にここから卒業するんだな。って思ってなァ……」
ぼんやり霞んだ視界の中に、胸に差し込まれた花束が見える。……なんでもネェ、目にちょっとだけホコリが入っただけっショ。と巻島は誰にも聞こえない大きさでひとり呟いた。


【おわり】