秘められし誓い

※大学生坂道&巻島

ようやく潮の香りのする場所まで近づいたと思ったら、湿った匂いの正体は雨だった。匂いにはどうやら塩加減が足りなかったようだ。

海の近くまで走る予定の長距離走行練習の途中で、突然の雨に遭遇したのは不幸だったが、偶然通りがかったコンビニに避難できたことは幸いだった。もたれるところがない場所で雨宿りをするのは辛い。ロングライドの途中ではなおさらだ。

巻島と坂道の大学生ふたりは黄色い看板を持つコンビニチェーン店の片隅にある小さな飲食コーナーに陣取ったが、何故だかそわそわしている坂道は座っていたスツールから一旦軽く腰を上げた。
「ボク、ちょっと漫画読んできてもいいですか。今週号の『少年チャレンジャー』の続きが気になって……」
オレは保護者じゃねーんだからそんな事、いちいち許可求めんなヨ。大学生にもなって。お前の好きにするっショ。巻島は手をひらひらさせて雑誌コーナーの方に坂道を追いやった。

……まったく、あいつは昔からオタクなことだけは全く変わってねーショ。高校生の時と比べて坂道の背丈は随分伸びたし、顔つきからも幼さが消えて端正な感じになった。最近のロードレースでの活躍を通して女性のクラスメイトから声をかけられることも多いらしいが、付き合いの長いオレと違って彼女等はきっとアイツのひどいオタクっぷりは知らねーんだろうなァ……。嬉しそうに漫画雑誌をパラパラとチェックする坂道の様子をちらりと横目で確認すると、巻島は甘い菓子パンをもぐもぐ貪る行為に戻った。

最近のゲリラ豪雨は比較的すぐに止むが、今日はまだ止む気配を見せない。ガラス張りの外の真っ黒な空を確認しながら巻島は無意識のうちに右膝の上をそっと撫でた。そういえば、明日は整形外科での定期診察の日だったか……。さっき走っている最中急に感電したようなピリッとした感触を持ったが、こんなのはきっと気のせいだろう、と自分の胸に無理矢理言い聞かせて気を鎮めた。

なぜか雨ではなくコーラの匂いがすると思ったら、いつの間にか戻ってきた坂道が隣でベプシを飲んでいた。巻島さんも飲みます?と言ってペットボトルの口を向けてきたので有り難く少し分けていただく。炭酸が喉をくすぐる感じが心地よい。

「そういえば、ずっと前にもこんな風に二人でコンビニの中で雨宿りしたこと、ありましたよね。」
窓の外を眺めながら、しばらくして間を持たせるように坂道が話し出した。
「まだお前がロード始めたばかりの頃だったっけ……クハ」
「あっ、笑わないでくださいよ」
あの頃はほんと初心者だったんですから、勘弁してください。と坂道は苦い顔をした。それはまだふたりが知り合った頃の話だった。同じクライマー同士、ということで巻島が坂道を総北高校の比較的近辺にある峠に連れて行ったまでは良かったが、オーバーペースで坂道が連れ回された挙句、リタイヤ寸前の所で急な雨に襲われたのだった。今は涼しい顔をして隣に座っている坂道だが、その時は泣きっ面にハチ、フラフラになってコンビニ店内で暫くダウンしていた記憶がある。話すことすらできず荒い息で壁にもたれて座るのがやっとだった。コンビニ店員の好意でバックヤードを借りて休憩したことも今では笑って話せる懐かしい思い出だ。
「あん時の坂道はゾンビみたいに死にそうな顔してたっショ」
「今思えば巻島さんだってひどいですよ。初心者相手にあの峠で振り回すなんて大人気ないです」
「クハ。悪ィ事したなァ」
確かにあの頃は同じクライマーの後輩ができた喜びからの勢いだけで、相手のことも考えずつい自分本位に行動してしまった。それに比べると今はオレも少しは器用になったのかねェ。と巻島は思う。誰かに色々教えることで教わることもあるのだということを知った。そのことを巻島に深く気づかせたのはいま目の前にいる人間だが、事実を告げるのにはなんとなく抵抗があるのでそれを本人の前で口に出すことは無いだろう。

「昔と違って、いまは余裕を持って一緒に走れるから嬉しいです」
誰から見ても素直な性格だとは言い難い巻島と違って、にっこり笑った坂道はごく素直に気持ちを口に出す。今日はここまでそれなりの長距離を走行してきたが、息一つ上がっている様子もない坂道を見てあの頃に比べたらすげー成長したナ。と巻島は今度こそ保護者のようにしみじみ感じた。

強い雨が近くのプレハブ構造のトタン屋根をバタバタとひたすら激しく叩く。
「雨、止みませんね」
「そうだナ……」
「……あの。やっぱり気にしてますよね……」
あのこと。坂道は機を見たのか巻島に向かってもじもじと切り出してきた。
「何のことだヨ?」
何のって……。坂道は話が通じないことがもどかしいのか、若干ささくれ立つ口調で問うてきた。
「今度のインカレの、エースクライマーの件。です」

先日行われた東都大学自転車競技部の全体ミーティングにて、部長の荒北が来月開催される大学ロードレース(インカレ)の出場メンバーを発表した。そこで、他のクライマー全員をさしおいてエースクライマーに選ばれたのは坂道の方だった。
「1年生がエースクライマーに選ばれるなんて正直、おかしいです。何かの間違いかと」
「……お前自身はどう思ってる」
「選ばれるべきなのは巻島さんです、ボクじゃない。自分でもよく分かりません……」
ごめんなさい。坂道は頭を下げようとした。
「そういうの、止めろ。強い奴が弱いフリをするのは良くねェ」
激しさを前に出した巻島の口調に、ハッとした坂道の動きがぴたりと止まる。
「謝るな、坂道。たとえオレが選ぶ側の人間であってもそうした」
……そもそも、今度のレースでオレじゃなくお前をエースクライマーにして欲しい、って最初に荒北に持ちかけたのはオレの方っショ。右の膝をゆっくり撫でながら巻島は坂道に事実を告げる。そういえば、この事はお前にちゃんと話したことなかったナ……。オレは去年、こっちの膝を壊したのさ。もともとオレのイレギュラーなスタイルは身体に負担を掛けていた、そのツケが遂に来ちまったんだ。今はどうにか治ったけど、もしかして、もう、前みたいには、走れねーかも、しれない……ショ。一字一句噛み締めるように巻島は言葉を区切る。
「だから、贔屓があったとか、自分が何か悪いと思うことは全然ねーショ。遠慮すんナ。今回のレギュラーはお前の実力で取ったモンだよ」
「巻島さん……。も、もう走れないってことは、無いんですよね?」
突然の告知に信じられない、という表情でひどく青ざめた坂道は恐る恐る尋ねた。
「それは、今一緒に走ってきたから分かるだろ、泣くな」
「な、泣いてないです。もうあの頃のボクじゃないですし、ボク……」
強がる坂道は目の淵がほんの少しだけ赤くなっているがなんとか堪えた。

外の陽射しが徐々に回復してきた。ようやく雨は止んだようだ。店の外に解放された二人は再び自転車にまたがった。発進する直前、後ろを振り返った坂道は巻島に声を掛けた。
「あのっ、インカレではアシスト、お願いします。まだ自信なくて」
「まぁ、レースの経験はオレの方が遙かに上だからな。今回だけはお前に譲ったけど、そんな簡単にはエースの座を譲らねーから。油断すんなヨ」
了承の印に片手を上げ、いつものようにニヤリ。と巻島は口角を上げてクハ。と笑った。

帰りはお前がメインで引けよナ。という先輩の言葉に忠実に、坂道は巻島を引いていく。その成長した後ろ姿を見ながら巻島はひたすら思案を巡らせる。
……多分、オレが真のエースクライマーに復帰することはもう無いだろう。これからもっと速く高くひたすら登り続けていく者と、ピークを過ぎて失速していく者では対等には戦えない。せめて、オレが持つ全ての経験をお前に与えたい。これからできる事はそれだけだ。オレができることは、それだけ、ショ。
――たとえ、そのせいでもう走れなくなるとしても……。

「行くぜ、坂道」
細いけれども力強い後輩の背中に向けて、ずっとアシストしていくことを巻島は秘め事のように誓った。

【END】



<あとがき>(白黒反転)
大学生坂道&巻島さん。将来妄想、大好きですw
ネタ的には「フォトグラフ」(腐向け。坂巻)の続きな感じです。
でも今回は腐ってる必要は無いんですが;読む方の判断にお任せします、ということで

</あとがき>