ピアスの記憶

 真冬の憂鬱な曇空の下、コンクリートで出来た校舎は静謐な絵画の中のような印象を人に与える。ましてや自由登校の時期の3年生の教室ならば尚更だ。
「この天気なら雪ふるかもなァ……」
比較的温暖な千葉周辺だが、冬真っ只中の今日はさすがにしんしんと冷え込んでいる。他に誰もいない教室で巻島はひとり待ち人をしていた。エアコンの微かな送風音が聞こえるほど静かな空間。

 本でも眺めて時間を潰すか、と床に置いていた鞄を手にした所でちょうど引き戸のドアがガラっと開いた。
「おう、巻島。待ったか?」
「いや、呼び出したのはオレの方っショ。授業もない日に悪ィな」
 応えるように巻島は軽く手をあげる。約束の時間に遅れたオレの方が大体悪いだろ、と田所は素直に謝った。自転車を通して親友になった2人だが、直接会うのは久し振りの事だった。自由登校になって以降クラスメイトに会うことはあまり無く、自転車競技部もとうに引退して部活に出ることもない。それぞれ新しい生活や引越等の準備もあった。

「東都大学、受かって良かったな。本命なんだろ?」
まァな、オレの実力なら全然余裕っショ。肩をすくめた巻島は軽口を叩いているが、部活引退後からずっと特別補習授業を受けたり予備校に通っていた事を田所は知っている。自分の性格からいって普通のサラリーマンは向いてねェから、資格取ってフリーで独立するつもりっショ。と何時だったか巻島は呟いていた。
「田所っちこそ最近どうなんショ」
「オヤジにさんざんしごかれてるぜ。また腕が太くなっちまった」
 田所は家業のパン屋を継ごうと、卒業後は製パンの専門学校に進路を決めている。授業の無い今は両親の仕事を手伝っているのだという。毎朝早く起きるのは辛くねーけど、働くってのは学校で勉強するのとは色々違うからな。人のあいだの気苦労なんかもあるんだと田所はボヤいた。

「……で、今日オレを呼んだ用事は何なんだよ」
普段から巻島はメールを書くことがあまり多くないのだが、その中で久々に田所宛てに届いたメールには「○日空いてるか?」という事だけで、用件の詳細は無かったのだった。
「田所っちにちょっと頼みたいことが出来たっショ」
一人では無理っぽくてサ……。巻島はプラスチックで出来た四角型の白い箱を鞄から出し、机の上に置いた。その箱は一面が更に四角くくり抜かれていて、そこに針のような金属製の部品が嵌っている。
「何だこれ」
「ピアス開ける道具。手伝ってほしいっショ」
 ここに。巻島は受験の為に鮮やかな緑色を止めて茶色に戻した長髪をかきわけ、自分の右の耳朶を露出させた。普段は髪に隠れてあまり見えないが、深海の貝のように美しい形をしている耳だった。
「こういうのは病院とかで頼んだほうがいいんじゃねえのか?」
田所は怪訝な表情をした。
「その為にわざわざ行くの面倒くさいショ……」
ピアッサー買ってみたけど、案外自分でヤルのは難しいなって気づいて。そうだな、田所っちはわりと器用だから任せてみようと思ってなァ。

 巻島から手渡されたピアッサーを田所はしげしげと眺めた。これがピアスを開ける道具か。なんとなく、注射器のようなものをイメージしていたがどちらかというとこれはステープラーのようにパチン、と針を突き刺して耳朶に止める仕組みになっているようだ。

 田所は巻島の右耳に手を伸ばし、壊れ物を扱うように色の薄い耳朶にそっと触れた。
「開ける穴の位置とか決めなくていいのか?」
「適当でいいショ。田所っちに任す」
 ……親友でも、チームメイトでも、(今まで俺に彼女が居たことはないが)異性でも、物心ついてからこれほど誰かの顔に意識して接近したことは無かったな……と巻島の柔らかな部分に触れながら田所はふと思う。それに、この耳。耳ってのは案外、じっくり見るとおかしなカタチをしている。人間であって人間ではない生き物みたいな?なんとも表現し難いモヤモヤした感情を抱いたが田所は男らしく黙っていた。

「田所っち?さっさとやってくれっショ」
巻島の言葉に現実に引き戻され、ピアッサーで耳朶を挟んだ瞬間……。忘れていた過去の記憶を閃光のように思い出した田所は、巻島の右耳から器械をスッと外した。
「?」
「ちょっと待ってろ!」
 巻島を制止する言葉を残し、田所はドアを乱暴に開け、彼は教室を走って出ていった。
「……??? 訳わかんねーショ……」
予想外、斜め上の行動を田所に取られた巻島は怪訝な表情のまま教室でひとりポカンと立ち尽くした。



 ――果たして数分後。田所は缶コーヒーを手にして再び教室に戻ってきた。
「ちょ、さっき突然どうしたっショ!」
「思い出したんだよ。オレの友達で前にピアス開けた奴がいたんだが、痛くないように、開ける前に氷で耳を冷やしたって話だ」
 冷やす、といってもここじゃコレしか思いつかなかったからな。ほらよ。田所から渡された、よく冷えたコーヒーの金属缶を耳朶に当てると、巻島はその部分の神経が少しずつ麻痺していくのを感じた。自分の身体の一部が自分のものではないような、奇妙な感覚。

 田所は巻島の右耳に再びピアッサーをセットし直した。
「お前の耳朶冷てぇな」
「冷やしたんだから当たり前っショ」
 二人はいつものように軽口を叩きあいながら、適切な場所にピアッサーを止め、

「……本当にいいのか?」
「いい、ショ」

田所は思い切ってボタンを押し込み、巻島はその瞬間、瞳を閉じた。

バチン、

器械が動作し、耳朶を刺す音がしずかな教室の静寂を破った。

「……痛かった、か?」
田所は自分が痛みを得たように眉を寄せて友人のことを心配した。
「いや、思ったほど痛くねーショ、これ……」
きっと田所っちのコーヒーが効いたんだな。巻島はそっと自分の右耳に触れ、刺し込まれた金属の欠片を確認すると、ありがとう、田所っち。と口角を静かに上げてひとこと礼を言った。

 じゃ、次は左耳の番だな。という田所を巻島は制した。こっちだけでいいんだ。と。
「片方だけだとバランス悪くないか?」
「コレはそーゆーモンなんだよ。おっとっと……なんてナ。クハ」
巻島はカカシのような姿勢を取っておどけて右側に傾くふりをした。

「で、このコーヒー。どうすんの?」
まだ冷たさの残る缶を巻島はもう一度手に取り、軽く振った。液体の重心がゆっくり移動する様子が手に快い。
「今飲むには寒ィショ」
「そう思って、温かいのも買ってきてあるぞ」
 制服のポケットから田所はもう1本缶コーヒーを取り出した。
「……田所っちはいつも優しいねェ」
一見、がさつで無骨に見えるこの男の持つ優しさは好ましい点だ。手嶋や青八木たち後輩は勿論、クラスメイトや先生等大人からの信頼もあり、田所の周りには自然と人が集まり、輪が出来る。基本的に個人主義で、気を許す友人も数少ない巻島とは違う。温かいコーヒー缶から彼の優しさがしみじみと伝わってくるように感じた。

 二人は1本のコーヒーを分けあって飲んだ。巻島のファーストピアスには綺麗なグリーンの石が付いていて、カッティングの角度によって僅かに光を放った。
「緑色って、お前にやっぱり似合ってると思うぜ」
言葉を受けた巻島の表情が野に咲く花のようにさり気なく綻ぶのを田所は喜ばしい気持ちで眺めた。



「これから鳴子の練習に付き合ってくるぜ。『オッサン、卒業前の今のうちにワイをたっぷりシゴいて下さい!』って言うんだ、あいつ。憎たらしいけどなかなか可愛いヤツだよな」
次に会う時は卒業式だな。まだ寒いから風邪引くなよ、巻島。そう言って田所はひとあし先に教室を去っていった。

 そして巻島は再び、ひとり教室に残された。……ひとつだけ、さっきと違うのは耳にうたれたピアスの存在。高校時代の想いを封じるように、緑の色素を閉じ込めた石を選んだ。刺した場所がじわじわと熱を持っている。想像したほどの痛みは感じなかった。でも、いっそもっと痛いほうが良かった――

「田所っちは右耳の意味とか知らねえよなァ」
睫を伏せた巻島が密やかな吐息で曇った窓ガラスを長い指で触ると、集まった水滴がひとすじ、はらりと零れた。


【END】

2012.02.05 七篠