「孔雀の矜持」- 妄想会議

孔雀の矜持

 クリーム色の重い引き戸をそっと閉めると、赤い髪をした少年は珍しく深いため息を付いた。普段の鳴子は決して溜息を付くような性格の持ち主ではない。だが、生徒指導室でコッテリと絞られた後はさすがに別だ。彼は定期テストの結果が芳しくないという理由で呼び出されたのだった。
「あー。なんで勉強せなアカンのやろな……」
床のタイルの薄いマーブル模様を見つめながら鳴子はボソッと呟く。他の部員たちの例に漏れず、自転車で走ることだけが彼の生きがいだった。たいていの大人は皆口々に「よく勉強しろ、良い大学を出て、有名な会社に入って働け」と判子を押したように同じ事を言うが鳴子はまだ高校1年生、遠い未来の事はいまいちピンと来ない。
(いつまでも、ワイは、ただ、自転車に乗れるだけでエエんやけど……)
どんよりとした気持ちですっかり肩を落としたまま俯き加減でのろのろと彼は廊下を歩き出した。

「あー、鳴子ォ?」
 一般教室が無いフロアという人気の少ない場所で突然自分の名前を呼び止められ、一瞬背筋を冷やした鳴子はその声の方をおそるおそる振り返った。そこには彼と同じくらい派手な身なりをしていることで校内ではそれなりに有名な、玉虫色の髪を伸ばした部活の先輩が大きな地図帳の巻物資料を2本持って立っていた。
「巻島さんですか……」
「珍しくショボくれてる様子だったから、あそこで何かあったかなーと思ったショ」
巻島は生徒指導室を指さす。お前が出てきた所、偶然見てたっショ。と彼は続けた。
「ハハ。先輩にはかないませんなぁ……」
 赤い頭の後輩はぽりぽり頭を掻いた。ほんの少しだけ赤くなっている目の縁を見て鳴子はあの部屋で相当コッテリ絞られたんだろうナと想像し、巻島は一瞬眉間を顰めたが口角をすこし上げて話しかけた。
「……鳴子ォ、これからちょっと時間あるショ?」

――オレ、今日日直でナ。まずこのジャマな資料を準備室に返してくるから、それまでお前は「ばら園」のベンチで適当に待ってろショ。と巻島は鳴子に言うとその場から立ち去った。



 通称「ばら園」とは総北高校の敷地内のとある場所の通称で、その名の通りバラの花の生垣がぐるりと茂っている狭い場所にベンチが数台設置されていることから誰からともなく「ばら園」という名で呼ばれていた。外側から見えにくいこの場所は生徒の間で主に秘密の話や逢引きをする場所として使用されている。秘密、といっても皆に周知されている場所なので本当の秘め事は出来ないという不十分な仕様だが、あまり人に聞かれたくない件で使うにはちょうどいいのでそれなりに利用されていた。
 今の時間のばら園には鳴子の他には今日は誰も居なかった。
「巻島さんの話、って何やろ……」
 繊細なバラに似合った洒落た曲線を形どった金属製のベンチに鳴子は深く腰掛けて、所在無さげに足をぶらぶらさせながら考えた。
(また、大人たちがするようにワイは巻島さんから説教されるんか?)
 そもそも鳴子は巻島とは同じ部活に所属していてもあまり接点がないので、呼び止められたはいいが巻島が一体何を考えているのか予想がつかない。同じクライマーの同級生・小野田は巻島に懐いているが、スプリンターの自分とはタイプが違うし話す機会もそれほど無い。
 唯一接点があるとしたらどちらも「派手な外見を持っている」事だろうか。大阪人の鳴子はとにかくド派手!誰よりも目立ちたいんや!という性格でそれが赤い髪の外見や真紅のロードバイクにも現れているが、同じ派手な外見をしていても巻島には目立ちたいというオーラは無く、どちらかというとオレの事は構わないでくれ、オレはオレのマイペースな道を行くっショという雰囲気だ。
(そんならなんであんなデーハーなミドリ色しとるんやろ?)
 頭に浮かんだ疑問を解こうとしたが、ちょうどそこで当の本人がバラ園に顔を出したため鳴子の疑問はタイムアップした。

「待たせて悪かったっショ。これお詫び」
 巻島の手には校内の自販機で売っている紙パックの林檎ジュースが2本あった。鳴子はきっと赤いのが好きだろうと思ったっショ。トマトと林檎と迷ったけどトマトは好き嫌いがあるからなァ。……という理由で林檎を選んだと巻島は言った。鳴子はありがたく1本受け取り、パックにストローをさした。
 一本のベンチで隣同士に座って2人はジュースを飲んだ。適度に冷えた液体が喉に心地よく通る。
「……いつも元気なお前がすごく落ち込んでる風に見えたから、ちょっと先輩らしいことをしてみるかと思ったショ」
と巻島は言った。どうやら慰めてくれるつもりだったようだ。それなら少しは悩みを打ち明けてもいいかなと鳴子は自然に思った。
「ハハ、ぎょうさん赤点取っちゃいまして。それで生徒指導室に呼び出し受けたんですわ」
「鳴子は赤色が好きだから赤点。とか……?」
 大阪人相手にはツッコミを入れないと失礼だと思ったのか、巻島は彼なりのサービス心で精一杯の軽口を叩いてみたが鳴子は巻島の予想に反して沈黙したままだった。俯いたままジュースをちゅーと吸っている。……場を沈黙が支配した。
「わ!ジョーダン!ジョーダン!下らない冗談ショ……悪かった。ゴメン」
 焦った巻島が珍しく大きな声と身振りで取り繕ったのに驚いて、鳴子はおもわず林檎味の霧を吹いた。

「実は、センセから目ェ付けられとる感じはテストの前から感じとったんです」
しばらくして鳴子は自分から打ち明け出した。
「授業中に変なトコで当てられたり、『頭が赤いのはピーマンか?』て言われたり。軽くやけど髪の毛ぇ引っ張られたりもして」
先ほどのドタバタで気が緩んだのか、長い糸につながれた万国旗のように鳴子の口端から悩みの内情がするすると出てきた。
「でも、今回赤点取って。そんで遂に呼び出されてしもうて。『確かお前はあの……【あの自転車部】、だったな。今後もテストの結果が悪ければ、強制退部も考えないといけないだろうな』」って脅されたんです」
大人しくベンチに座る鳴子の、膝の上で固く握られた手が震える。
「ワイ、自転車取られたら生きていけへんです。どないすればええんやろか……」
ボリュームのある赤い髪に隠れて鳴子の表情は巻島からはよく見えなかったが、きっと泣きそうな顔をしていた。
「……1年の生活指導担当って水谷のヤツかァ?」
「水谷センセのこと知っとるんですか?」
巻島からの意外な指摘に驚いて鳴子は顔を上げた。
「クハ、オレも鳴子と同じで1年の時アイツに生徒指導室に引っ張られてよォ」
 そんな事があったから今回お前の事が気になったってのもあったんだヨ。巻島は続けた。
「目立つ生徒を目の敵にしてるんだ、アイツ。水谷に限らず、そういう大人って結構多いショ。海外と比べて日本は目の上のタンコブとか目立つ奴を叩きたがるバカが多いよな。オレ、前は親の仕事で海外にいたんだけどこっち戻ってきてからオレは結構驚いたぜ。ほんと、くだらねー話だよなァ」
デキる奴の足引っ張ってどうするつもりなんだろうナ。巻島は視線を遠くにやり、空の紙パックをグシャッと捻るとその残骸を近くのゴミ箱に放り投げた。綺麗なカーブを描いて紙パックはあるべき場所に収まった。
「巻島さんもですか。先輩も目立つからそういう目に遭うたんですね……」
どうもなりまへん。手詰まりや。という表情をして鳴子は力いっぱい地面を蹴った。ザッと砂が舞う。また沈黙。
「とはいえ、一方的に叩かれるのはオレだって望まねーところっショ」
そう言うと、巻島はブレザーのポケットから白い紙片を出して鳴子に渡した。
「見ていいぜ」
折り目正しくたたまれた、見慣れたタイプの紙片を鳴子は開く。その中身をざっと見て鳴子は驚いた。
「……これ! マジっすか」
「マジ。っショ」
鳴子の言葉を受けて、いつもの癖で鼻の下を擦りながら巻島は返す。
「あのー、これ、金城さんの物やないですよね?」
疑いの眼差しで鳴子は巻島の方を見た。
「……。お前結構ヒデー奴ショ」
巻島は苦虫を噛んだように細い目を一層細めて変な顔をした。
「オレのだよ。ちゃんと名前!オレの名前ここに書いてあるっショ?」
巻島が指さした白い紙片は先日の定期テストの彼の成績表だった。各科目の点数とクラス内の順位、学年の総合順位がプリントされている。点数はどれも高く(鳴子は入学以来こんな点数を見たことがない)、順位はどれも一桁台だった。
「す、えらいスンマセンでした!」
米つきバッタのように鳴子は何度もペコペコペコペコ頭を下げた。
「いや、別にいいけど…… クハハ」
鳴子の大げさな漫画的動作を見て巻島は腹筋が攣りそうになったが、先輩としての威厳から口に手を当てて視線を逸らし、笑いをなんとか噛み殺した。気分を変えるように巻島はベンチから蓮っ葉な感じで足を投げ出した。
「まぁこういう外見だからオレ達はあちこちで叩かれるワケショ。『何考えてるか分かんねー』とか、『もっと学生らしい格好しろ』とか。でも、だからって外見を変えたりあいつらに合わせたりしなきゃイケねー道理はねーよ。だから……オレは考えた」
巻島は今度はベンチに深く腰掛けなおし、深く思索する時のように両の手のひらの長い指を綺麗に組んだ。
「何を……何て考えたんですか」
巻島さんは。鳴子は答えを知りたかった。
「目立つから叩かれるんだ。だから、あいつらに文句言われないくらいの成果を上げればいいと思ったっショ」
学生の本分は勉強、だからオレはとにかく成績をあげた。巻島は熱弁を続けた。
「……そしたら誰からも何も言われなくなったのサ。指導部のセンセェ達にゃ今でも時々睨まれるけど、この成績を維持してれば下手に文句もつけられねーしな。クハ」
この前水谷とすれ違った時もすんごい目で睨まれたけどな、あいつオレに何も言えねーでやんの。あん時は凄いスカッとしたっショ!巻島はしてやったりとした表情でチェシャ猫のようにニヤリと笑った。つられて鳴子も愉快な気持ちになってハハ、と笑った。笑い声と一緒に、暗い気持ちが抜けていくような気がした。
「オレみたいに勉強じゃなくてもいいけど、どういう方法でも負い目が無いようにやり抜けばいいと思うぜ、鳴子。まァあんまり赤点が多いとマジで部活行けなくなるからほどほどに勉強は必要だけどなー」
 最後にそう付け足すと「じゃ、お先」と言って巻島はバラ園から颯爽と立ち去った。その長い後姿を、視界から消えるまで鳴子は何かに魅入られたようにずっとずっと見つめていた。



そして翌日。先日までの曇り空から一転、すがすがしい晴れ模様の朝だった。
「おはよう!小野田っくーん!」
キリッとした表情で鳴子が部室に入ってきた。
「鳴子くん、おはよー。なんか今日、元気だね?」
うん、元気やでー。今日も朝練で山から海からいっぱい走ってきたんや、と鳴子は楽しそうに言った。朝練ジャージから制服に着替え中の鳴子の制服からリングで纏められた紙の束が落ちた。小野田はそれを拾って持ち主に渡す。
「はい、落とし物だよ。これ、単語帳?」
そーなんやー。ありおりはべりいまそがりやー。ってそれは古典!コテンコテンや!鳴子は一人漫才を終えると自作の英単語帳をパラパラ漫画を見るようにめくった。
「……昨日ちょっと色々あってな。ワイ、これから本気出す!!!って思ったんや」
「そうなんだ。何があったの?」
「ところで小野田くん、君の先輩はすごいなー。頭が玉虫色のヒョロいだけの奴とは違ったんや!感動したわ!すっげ立派な人やな!」
鳴子はいま流行しているお笑い芸人の動きを真似て楽しそうにピョコピョコ踊った。
「あー、何がヒョロいって?」
話題の渦中にある玉虫色のヒョロい男が丁度ドアから顔を出した。
「まっ、巻島さん!おはようございます!今日もよろしゅう頼んます!」
鳴子は巻島に向かってビシッ!と敬礼した。
「おう」
巻島はニヤリと微笑み、応えるように軽く手をあげた。

「……何かあったのかな?」
自分の尊敬している大好きな先輩がこれまた大好きな友達から褒められて、小野田はとても嬉しく誇らしげな気持ちになった。どうして鳴子くんが急に巻島さんを褒め出したのかは分からないけど、今度その理由をじっくり聞いてみたいと坂道は思った。

【おわり】

2012/03/04 七篠