ラッキーチャーム

暑い真夏のさなか、夕方頃に吹く風は爽やかさを運んでくる。この家は高台に建っているので街の中心より体感温度がすこしだけ低い。しかし、その高台の家に住む高校一年生男子の頭の中は気温に反してヒートアップするばかりだった。
「あー、もう明日かぁ。ホントにちゃんと走れるのかな……?」
坂道は寝床から頭だけ出して窓の外に流れる雲を眺め、ため息を付いた。

予選にすら出場していないのに、いきなりインターハイの本番で走ることになっ(てしまっ)た。経験者の今泉や鳴子と違い、坂道にはまだ正式なレースでの経験がない。まるで、通行人役その1が急にスポットライトを当てられ、舞台の中央に引き出されて踊らされるような感じだ。経験の無さから来る漠然とした不安がレースの日が近づくにつれ形になってきたようで、昨夜は深夜アニメ視聴を諦め早々に床についたものの、いまいち疲れが取れず今朝まで身体の怠さが残り、布団から出るのを辛く感じた。念の為に部活は欠席した。明日発熱して使い物にならなくなるよりは今日休んだほうがマシだ。

時折、坂道は緊張のあまり軽く発熱することがある。プレッシャーによる体調不良、いわゆる知恵熱というヤツだ。半日寝ていれば大抵は治るのだが、高校生になってからはご無沙汰していたのでこれは久々の経験。同学年の今泉とは違い、自分の身体はまだ成熟しきっていないんだと坂道は改めて思い知らされる。クラスで前から数えたほうが早い身長も彼の思いに追い打ちをかけた。



布団の中で読み返していた漫画にも飽きてしまった。坂道がうとうと眠りかけた時、玄関でレトロなチャイムの音が響いた。母親は今日はパートで帰宅が遅い。父親の方も毎日残業が多く、まだ帰宅するような時間ではない。
宅急便でも来たのかな……それとも回覧板?坂道はまだ少しだけ怠い身体を動かし、バタバタと階段を下りた。

「ショッ」
聞き覚えのある語尾で坂道は来客者の正体に気づいた。ひょろりとした長い影を見て引き戸を開けると、そこには同じ部活のクライマーの先輩、巻島の姿があった。肩の下まで伸びた、玉虫のような緑色の長髪が少し揺れる。いつ見てもそれは草木萌える春の森のように華やかだ。
「あれ、巻島さん……」
部活動欠席の件は金城に連絡済なので、勿論巻島も知っているはずだ。
訪問の理由を尋ねると、彼は部長命令で今日の最終ミーティングの内容を伝えに来たらしい。
「起きてて大丈夫っショ?」
「もう随分いいんです。たまに、少しだけ熱が出ることがあって……でももう平気なんで」
わざわざ家まで見舞いに来てくれた先輩を坂道は応接間に通した。「小野田家の応接間」といっても畳敷きの、さほど広くない和室である。以前お邪魔した巻島家の豪華すぎる屋敷との差に気恥ずかしさを感じたがそれは考えても無駄なことだ。振り払うように坂道は一瞬かるく目を瞑った。

「粗茶ですが、どうぞ……」
客用に準備された、庶民レベルでは高価な静岡産の緑茶を坂道が淹れて出すと
「『粗茶』、か。小野田は礼儀正しいねェ。いただくっショ」
気遣いの言葉と共に、客として招き入れられた事への礼儀なのだろうか
最初は適当に胡座をかいていた足を少し窮屈そうに正座へ組み直した巻島は、客用に分けられた清潔な湯のみを手にし、一口すする。彼の手にあるシンプルな紺色の湯呑みに描かれた水玉を見て、(そういえばクライマーの栄誉あるジャージも水玉模様なんだっけ……)と坂道はなんとなく思いだした。
「……ジャージ。」
「!」
心に浮かんだことを突然巻島に言い当てられ、坂道は電気に打たれたようにビクッ、と跳ねた。
「べつに驚くことじゃないっショ、アレ、アレ」
応接間の鴨居に掛けてある黄色基調の派手なジャージを巻島は指でさす。
「明日の準備?」
「そ、そんな感じです……」
良い母親だが少しネジが外れている坂道の母はあいかわらず息子がロードレースに出る話を理解してくれない。が、綺麗に洗濯され、きちんと乾かされたジャージは彼女の手が掛けられたものだ。

「えーと。小野田。明日はちゃんと行けるっショ?」
「はいっ」
坂道は元気よく応えた。
「これ、金城からの【明日の遠足のしおり】な……『大切な後輩によろしく頼むぞ』って言われたっショ」
巻島の手から坂道に一枚のペーパーが渡される。明日からのインターハイの注意書きらしい。何度も回を重ねた自転車競技部のミーティング自体は殆ど終わっているのだが、直前に変更された(と思われる)事項が今日の欠席者のために黒と赤のインクの丁寧な字体で追記されていた。坂道は後でそれを穴が開くほど読んでおかなきゃ、と思った。今日の不手際をフォローするために。それが素人にできるせめてもの努力と心がけだろう。

それから自転車の話、ロードレースの心がけや部員の間の面白おかしいウワサ話等くつろいだ空間で2人はたわいもない事をぽつりぽつりと話していたが、あっという間に時間が経ってしまった。最初に話を交わした頃は「オレは自転車でしか会話できないんだ」などと自嘲していた巻島もお互いのことを知り、共通の時間を過ごせばいつしか話題も増えていった。
いつからだろう、巻島と過ごす穏やかな時間を坂道は気に入っていたが、今日は明日のこともあるので長引かせる訳にもいかない。「もう、そろそろ……」と坂道の方から切り出した。



2人は家の外に出た。巻島は壁に立てかけてあったカーボン製の愛車の鍵を解錠してひょいと起こし、小野田家の敷地の出口、坂の入口まで押して歩いた。坂道も先輩を見送るために一緒に歩く。しばらく無言だった2人だが、巻島がぼそりと口を開いた。
「ここ来るまで坂がな……」
「坂?」
巻島の言葉に坂道は首を少しひねった。
「……えーと。小野田ん家に着くまでのこの坂、結構長かったっショ」
オレたちクライマーにとっては坂は好物だけどな。巻島はそう続けた。2人は高台から坂の下までずっと続く道を一緒に見下ろす。
「この家、よく『キツい坂』って言われて、ここまで来る友達もあまり居なくって。でも、ボクはずっとここに住んでるから、キツいとかそういう感覚、分かんないんですよね……」
本当に分からないんです。といった感じで少し困惑したように眉を下げた後輩を見て、巻島の口角が僅かに上がる。
「……ナンかさ、小野田の強さの理由?がここに来てオレにはちょっと分かった気がするっショ」
しかし、その瞬間。時折この高台に差し込まれる気まぐれな風が不意に吹きこんだせいで坂道まではその言葉は届かなかった。
「えっ巻島さん、いま何か言いました?」
坂道は与えられた言葉をもう一度拾おうとしたが
「いや独り言みたいなモンだ。大したことじゃねーショ」
巻島の、それこそ煙に巻くような態度に遮られた。

「じゃ、オレ帰るから。明日またな。もう熱出すなヨ?」
巻島は後輩の背中をポン、と軽く叩いた。彼の家はここから学校を挟んだ反対側にあるので決して近くはない。真夏といえどもうそろそろ少しずつ日が陰る時間だ。
「今日はこんな所までありがとうございました、お休みなさい巻島さん」
坂道は礼儀正しく頭を下げる。
「おっと、忘れ物……」
巻島は制服のポケットに指を入れ、何か小さな欠片をつまみ出した。育ちが良いせいか、手が長いせいか、彼の一連の動作はどこか優雅さを感じさせる。
「小野田、手ぇ出すショ」
「?」
言われたまま坂道は両手の掌を差し出して、それを受け取る。受け取ったものは金色の小さなメダルだった。金色といっても汚しが入れられ燻ったもので、見た目と大きさは5円玉に似ているが真円ではなくゆるい楕円形をしている。ポケットに入っていたせいか冷たさはなく、坂道はメダルから巻島の体温をほんのり感じた。

「これは……クライマーのためのラッキーチャームっショ。」

巻島はそのメダルの由来を語った。コレはフランスにあるマイナーな教会で細々と売られているもので、そこはサイクリストにとって由緒正しい場所なのだ。この教会は山の上、長い坂道の頂点にあるから特にクライマー達にとって絶大な支持を誇るトコロなんショ。……ということらしい。
「知る人ぞ知る場所だから本やネットを見ても載ってないっショ」
曰くありげに巻島は最後にそう付け足した。

坂道の手に乗せられたメダルには、西洋人らしいシルエットが彫刻されていた。楕円型の上部には小さな穴が開いているので、紐か何かを通せばキーホルダーやアクセサリーにもなるのだろう。
「でもっ、そんな高価な物……ボクがもらっちゃっていいんですか?」
坂道は大きな瞳を更に開いて「えっ、えっ」とうろたえた。
「別に高いものじゃねーから心配は要らねーショ、これ持って、小野田には明日からイッパイ活躍してもらわねーとなァ。」
じゃあな。シュッとした動作で巻島はロードバイクに跨ると、玉虫色の影は音もなく長い坂を下りていった。
坂道は小さくなっていく影に向かって大きく手を振りながら叫んだ。
「ありがとうございます!これ、きっと!絶対ー!大切にします!」
その声に答えるように遠ざかる影は右手を軽く上げた。



夕食と風呂を済ませ、明日のために早く寝る仕度をしつつ、坂道は荷物の脇に置いたメダルのことが気になりそちらの方をついついチラッチラッと見てしまう。
「なんか凄い物もらっちゃった……」
メダルを手のひらに乗せ、眺めた。サイズは小さいけれど、いまの坂道の心に占める面積は決して小さくない。クライマーとして、先輩として尊敬するひとが自分のためにわざわざ持ってきてくれた、金色のメダル。まだ少しだけ温かさが残っている気がする。それが身体の熱なのか、巻島から与えられたぬくもりなのか坂道にはよく判らない。
「ボクもがんばらなきゃ」
明日からのことを考えると多少興奮はしていても、この由緒あるメダルのご利益なのか、余計な力は抜けていくように感じた。



翌日のインターハイスタート会場、江ノ島は晴れて雲ひとつ無い青空だった。青い空と碧い海が遠くまで見渡せる綺麗な場所。坂道はやっぱり緊張はしているが、これから始まる新しい経験、初めてのレースに胸がときめく予感も共にあった。
「うわっ」
通路のちょっとした段差で軽い身体が躓いた刹那、チャリンとした音が響いて、坂道はアスファルトの地面を必死な眼で探した。
「……これ、お前のか?」
ちょうど背後にいた巨体の男がその落し物、坂道のメダルを太い指で器用に掬い上げる。
「あっすみません、田所さん。ありがとうございます、コレ、大切なものなので、その、あの」
「! このメダル……」
霊験あらたかなメダルに田所は何かを感じたのか眉間に皺を寄せ、指先でつまんだそれを怪しそうに眺めている。
「……? どうかしましたか? それボクのですけどっ」
田所がメダルを欲しがっているように思った坂道は(彼なりの)強い口調で制止したが、しかし田所にはそういうつもりは無かったようですぐに坂道にメダルを返した。
「……いや、何でもねーけど。大事なモノなら気ィつけろよ」
ようやく返してもらったメダルをもう落とさないようにしなきゃ……と坂道はメダルの穴に寒咲妹から分けてもらった裁縫用の糸を通してそれをゼッケン用の安全ピンに引っ掛け、ジャージの後ろポケットの底に結びつけた。
「これで、大丈夫かな」

ポケットの上から確かめるように坂道は小さなメダルに触れた。これがあれば大丈夫、3日間走りぬけられる。きっと……。そして少しの間、祈るように瞳を閉じた。



「……小野田にやったのか?アレ」
スタートラインに行く前の僅かな準備時間、田所はテントの横で他の人間に聞かれないよう小声で巻島に訊ねた。
「ああ、アレ……。ショ」
長い睫で伏し目がちに応えた巻島に対して田所は続けた。
「小野田、スゲー大事に持ってたぜ。けど……あれ、この前行った『りりぽーと千葉』の雑貨屋でお前が買ってたヤツだろ。『この中で田所っちはどのメダルが一番由緒ありげに見えると思うっショ?』って言ってたメ ダ ル」
「田所っちってけっこー目ざといよなァ」
外見に似合わず。巻島はそう続けたかったが長年の経験から怒られることが明白なので遠慮した。
「どうせ『貴重品のメダルっショ。これがあれば速く走れるっショ』とか適当な事言ったんだろ。お前は将来きっと立派なペテン師になれるぜ」
田所からのお褒めの言葉にフッ、と巻島は鼻で笑う。
「まァ確かにハッタリかもしれねーけど、こういう迷信や暗示っぽいのが案外メンタルには効くっショ。小野田みたいなタイプには特に、な……」
やれば出来る後輩の背中を押すのも先輩の立派な仕事だぜ?と巻島は続けた。

「さて、お手並み拝見ってトコっショ。……オレは期待してるんだぜ?」
3日間のステージの始まりだ。玉虫色のクライマーは大きな舞台の幕を華やかに開ける俳優のように仰々しくその長い両腕を広げた。


【END】
2012.01.03 七篠