発覚

※RIDE.235以降のネタバレ有り。注意※

 緑あふれる優しい光景だが、その実かなりキツい斜度のアスファルトの上をオレは愛車のロードバイクで駆け抜けていた。寒い季節だが汗が頬を経由して顎の下までだらだら流れる。玉虫色の髪が肌に張り付いてしつこい。こんな季節なのに、くそ、邪魔だ。指で拭ってビッと払い除けた。
 ――しかし、果たして。一体、ここは何処だ……? 自分の居場所を見失ったオレは記憶の中を探る。いや、深く考えるまでもなく、「この場所」をオレが間違える訳がない。ここはかつて何度も何度も飽きるほど登り、親しんだ千葉……峰ケ山の景色だ。だが、渡英するため同級生より一足先に高校を卒業した半年前以来、決して通るはずのない道でオレは今、ひたすら重いペダルを回している。
「巻島さん」
 背後から、オレの名前を呼ぶ声がした。エコーがかったようにくぐもっている。
「巻島さん」
 どこかにまだ少年の面影を残す響き。オレはその声の持ち主を確かめようと振り返ったが、逆光のせいで表情までは解らない。しかし、彼の声は何故だか悲しげな感情をオレに与えた。

 …………と、そこでオレは目を覚ました。近くの公園からチュンチュンとスズメに似た小鳥の声が聞こえる爽やかな朝。やれやれ、なんだか変な夢だった。と巻島はベッドのなかで軽く伸びをした所で、目の縁から涙をこぼしていたことにふと気づいた。涙は欠伸という量ではなく、目ヤニもひどい。別に泣くような内容の夢じゃなかったのに、これは一体どういう事なんだヨ……。巻島は朝から困惑しながら、のろのろと気だるい身を起こした。

***

 住み慣れた日本とは違った空の下、冬のロンドンにはグレイ色の雲が低くたれこめている。薄暗く常に曇った、霧の出やすい気候。メンタルヘルスの講義では「鬱気質の患者が多い」と教授が言っていたような。そんな空気にオレも影響されたのかもしれないと、巻島は今朝の夢にとりあえずの結論を出した。元々ハイテンションな性格ではないからこんな憂鬱な気候も嫌いじゃァないんだケド、とロンドン郊外の庭園のようなキャンパスの構内をゆっくり歩きながら巻島は思う。
 兄の事業を手伝いながらの大学生活。元々帰国子女だった事もあるとはいえ英語のみで交わされる授業に入学したての頃は随分閉口したが、最近では慣れていくらか余裕も出来た。気軽に赴ける近場にヒルクライムに適した山が無いことと、日本から持ち込んだ愛車のロードに乗る機会が少ないことがいまの一番の悩みだが、この調子ならそのうち隙間の時間をもっと要領よく確保できるようになるだろう。渡英から半年経ち、ようやくこちらの生活に体も心も馴染んできた感じがする。巻島は爪先で軽やかなタップを踏んだ。

「ユウスケ!」
 タイルの敷かれた歩道で立ち止まった巻島が軽く背伸びをしたところで、後ろから歩いてきた黒いセルフレームのメガネをかけた青年に声をかけられた。
「ッス、ジョン」
「髪の毛がグリーンだからユウスケはすぐ分かるね。ところで、今日の講義の予習ノート見せてくれない?」
 僕、世界史苦手でさ……。ゆるくウェーブがかった焦茶色のショートヘアの同級生、通称ジョンことジョナサンが巻島に近づいてきた。同じ歳だがそばかすを持つファニーフェイスと、黒のセルフレームメガネがトレードマークのジョンは巻島とはまた違った意味で自他共に認める変わり者だが、じゃれ付く仔犬のように人懐っこい性格で遠い国から来た留学生の巻島にも親しくしてくれるナイスガイだ。
「いいけど……。オレのノートは日本語で書いてある所もあるから、ジョンには読めねェかもナ」
「分からない所は適当に飛ばすから良いよ」
 巻島が大教室に着席してテキスト類をカバンから出すと、早速ジョンは隣の席に座り巻島のノートをちょこちょこと写し始めた。
「ああっ、ユウスケ! これって……!?」
 ノートの横に置かれた巻島のペンケースに付いたアクセサリを発見したジョンは声を一段高くして巻島のほうを大袈裟に振り向いた。メガネのレンズが、狙ったようにキラリと輝く。
「ん? 何だヨ」
「『もぐもぐりんこ』に出てくる「くも太郎」のヌイグルミじゃん! 何でコレ持ってるの? ユウスケって超クール!」
 ……言いそびれていたが、ジョンはナード、日本で言う所謂「オタク」だった。

「さすがユウスケ、あの日出づる国ジパング、クール・ジャパンからやってきた男だ。いいなー。いいなー。こっちじゃ『ワンビーズ』や『チクワ』と比べてマイナーな『もぐもぐりんこ』のグッズは入手しづらくてさー。レアアイテムなんだ。なんだったら言い値で譲ってくれないかな。勿論お礼も払わせてもらうよ」
 良く言えばシンプル、悪く言えばいつも地味な服装であまり冴えない見かけのジョンだが、得意の数学を使ったネットトレードの利益で学費プラスアルファ分を稼いでいるという遣り手らしく、巻島に現実的な取引を持ちかけてきた。
「そうなのか。……でもこれは、ハイスクールの時の後輩がくれた大切な物だから、いくらジョンが欲しくてもあげられねェヨ。悪ぃナ」
 思わぬ所でお目当てのアイテムを見つけた興奮で今にも口からよだれをダラダラ垂らしそうなジョンの手から巻島はくも太郎の縫いぐるみをサッと取り返した。
(ペンケースに付けているのは1匹だけで、残りの9匹は家の棚に並べてあるけどその事はきっと言わねェほうがいいだろうナ……)と思いながら。

***

「しかし。そのくも太郎をユウスケにくれた後輩?はよく判ってると言わざるを得ないね! 僕的には」
 しかもユウスケの持ってるそのくも太郎はシークレットグッズなんだ。知ってた? それで……。だから……、あのさぁ……。広いランチルームで巻島と昼食を一緒に摂りながら、ジョンは興奮したようにアニメの感想を立て板に水とばかりに一方的にまくしたて始めた。一旦演説が始まるとなかなか止まらないのもいつものことだ。
(坂道といい、ジョンといい、オタクってのは東西問わずこんな感じなのかヨ……。どっちもメガネキャラだしなァ)と巻島は内心思ったが、坂道の時と同じように「適当に頷いていれば何とかなる」ということも知っているのでジョンの演説を半分聞き流すように耳に入れた。

 ――小野田坂道……。遠く離れてしまった今も元気にしているのだろうか。いつも巻島の心の隅のどこかに小さな体で奇跡を起こす彼の存在があった。家の近くにあるジュニアハイスクールで背丈の似た男子を見かけた時、近郊の小高い坂に独りで登る時、ショートヘアでメガネを掛けた華奢な娘とすれ違う時、あらゆる折にふれて巻島は坂道のことをふと思い出す。いまのところ、悪い噂はここまでは聞こえてはこないが、思い通りに走れなくて泣いたり、誰かのせいで傷つけられてはいないだろうか。……オレは半年ほどチームを共にしただけのただの後輩を心配しすぎているのか? しかし「魂をあずけた」あの夏のインターハイの死闘を共にしてから坂道は巻島にとって特別な存在となった。叶うものならインハイ後の坂道の成長と、その結果を見届けたかったが己の事情がそれを許さなかったのがいまでも残念だ。ナードでメガネがトレードマークのジョンといま話をしていて楽しいのも、坂道とのボタンを掛け違えたような下手なやりとりを懐かしく思い出すからだろう。初めてジョンと知り合った時には「こんな所にも坂道のお仲間がいるんだナ……」と驚いたものだが。

「今度僕にも紹介してよ、そのナードな子」
 しかし坂道と同じオタクでも、ジョンはさすがヨーロッパ人。日本人とは積極性が違う。巻島はすこし感心した。……単に、日本のオタク友達が欲しいだけかもしれねえケド。
「いいけど……。でもそいつ、多分英語は喋れないぜ。それに、相手は英国人じゃねえ、日本人だからそんな簡単には会えねェっショ」
「今はFacebookとかSkypeとか、twitterもあるから遠くても友達になれるよ。同じ『OTAKU』なんだし。この際、僕が日本語をちゃんと勉強するのもいいな。ジャパニーズアニメ好きだから、今でも少しは話せるしね。……あ、それとも」
 ジョンはコホン。と息を払って巻島のほうをチラリと伺うように見つめた。
「何」
「もしかしてユウスケとその後輩はもうステディな関係だったりするのかな?」
「……!!」
 顔の前で指を組んでウインクするジョンの軽口に、巻島は飲んでいたコーヒーを吹きそうになった。正確には、ランチトレーの上に僅かながら茶色の霧を発生させてしまった。エアブラシのような飛沫で紙ナプキンが薄く染まる。
「ユウスケが可愛がるくらいなんだから、相当カワイコちゃんなんだろ? ユウスケはグラビア美人好きのメンクイだからな」
 ジョンのあまりにもな発言に巻島は思いきり絶句して、息が止まった。下手するともう少しでうっかり椅子から転げ落ちるところだった。
「そ、そ、そんなんじゃぁねェっショォ!!! 第一、その後輩って男だぜ?」
「あれっ。ユウスケはゲイなの? そうかー。そうだったかー。確かにその七面鳥みたいに派手なファッションセンスはソレっぽいけど」
(さ、さすがイギリス。変態が多いと言われるだけあるショ……)それが偏見かそうかはさておき、平然としているジョンの方を見て苦い顔で巻島は一瞬納得?しかけたが
「……お、オレと坂道、えーと、後輩はそういう関係じゃァなくて、ほんとにただの先輩と後輩同士なんだヨ!!」
 とりあえず誤解を解くために必死になった。

***

(そう、オレと坂道はただの先輩後輩同士なんだって……)
 ジョンからの誤解を解くのに必死で一日終わってしまったような気がする。何故だか心身ともにドッと疲れが押し寄せていた。講義を終えて、いつものように兄の仕事を手伝った後で自分のアパートメントに帰宅した独り暮らしの巻島はソファに体重を預け、豆から挽いた濃いコーヒーを口にして、ふぅ。とようやく一息付いた。
「離れていても友達になれるよ」
というジョンの言葉を思いだしながら、巻島は毎日の習慣通りなんとなくノートパソコンを立ち上げる。
 画面上のtwitter閲覧ソフトのタイムラインに、派手な赤色基調の同じアイコンが大量に映った。それは鳴子のアカウントで、すっかりツイート中毒らしい鳴子は朝から夜までひっきりなしに投稿を繰り返している。彼が静かなのはケータイ禁止令が出ている授業中の時間くらいだろうか。以前、総北高校内でtwitterが流行りだした頃に「ワイも始めたんや、コレむっちゃ楽しいでー!」と大変ハマっていた鳴子は自転車競技部のメンバーを勧誘して片っ端から半ば無理矢理アカウントを作らせフォローしまくり、彼はすっかり部における情報発信の中心人物になっていた。(一方、巻島はアカウントは持っているものの基本的には気が向いたときに目を通す程度で、投稿もごくたまにスマートフォンで撮った写真をアップロードするくらいだ。ただ、離れても誰かと繋がっているという安心感からかイギリスに来てから目を通す頻度は増え、就寝前などの軽い楽しみになっていた)
 普段は「ワイ腹へったワ」「練習なう」「ぜんぜん勉強ワカランなー」等かなりどうでもいい事をツイートしている鳴子のたわいもない投稿だが、そんな彼が流した数時間前の投稿に巻島の視線が突然釘付けになった。

「友達の @ota_himehime くんがバスにはねられて病院なう」
「……意識がないって。むっちゃシンドイわ。助かってくれ……」
「@sugi_colnago 小野田くんは南総合病院に運ばれたんや。ワイは今手術室の前のベンチにおる」

 オタヒメヒメ、とは坂道が使っているアカウントだ。
「な、何だって……!」
 念のため、巻島は坂道のアカウントを確認したが、彼の最後の書き込みは昨日の「ota_himehime 今日の『図書室のおねいさん・セカンドシーズン』も面白かった! やっぱり珠緒さんが最高だよね〜♪」という視聴アニメの感想で止まっていた。

 坂道の突然の事故の件を知り、愕然として頭の中をぐるぐる混乱させてから数時間。ようやく正気に戻った巻島は、気がつくと成田へ向かう最終便の機上の人になっていた。ヒースロー空港まで急いで車を走らせラストフライトにギリギリ間に合ったは良いが、国際線、成田までの直行便の正規料金は裕福な家の巻島の懐にもさすがに痛手だった。
(ようやくこっちのシゴトにも馴れてきたってのに、ここん所の給料の殆ど持っていかれたっショ……。いったい何やってるんだ、オレは)
 でもお金などはいくらでもまた働いて後で取り返せば良い。今の問題は坂道の容態、命の灯火だ。スマートフォンでtwitterを確認する暇もなくジェットに搭乗したのであれから坂道がどうなっているかは今の巻島には判らなかった。
「ほんとに、馬鹿っショ……オレは……」
 まったく、どうかしている。苛立ちと焦りで巻島は頭をぼりぼり掻きむしった。これから成田に到着するのは十数時間後。それから総北高校の近くにある南総合病院に直行しても、プラス一時間はかかる。それに、巻島が駆けつけたところで坂道の容態がどうにかなるものでもない。完全なお荷物だ。それでも……。
「どうか、どうか無事でいてくれ。オレの、大切な、坂道……」
 巻島は普段は信じていない神様にすがるように、子どもの頃母親から貰って以来御守りのネックレスとして身に着けているマリア像が彫られた小さなメダルをぶるぶる震える手で首から外して胸の前で握りしめ、まぶたを閉じた。坂道を助けてくれるなら、どの神様でもいいです。お願いです。お願いですから、坂道のことを、どうか、どうか、助けてやって下さい。そのためならオレの命なんかくれてやってもいいんです。だから、お願いします……。
――地上よりも天に近い雲の上のここからなら、少しでも多く、祈りがより強く聞き届けられるだろうか? 必死になって血走った眼で巻島は、美味しいと評判の機内食にも一切手を付けずに坂道の無事をひたすら願い、祈り続けた。

***

 成田から直接駆けつけた夕刻の南総合病院は一般診察も終わり、静かな空間だった。受付で坂道の病室を聞き出した巻島は階段を長い足でひたすら駆け登り、ぜいぜい息を切らして辿り着いた「603号室」の名前のプレートを確認してから窓際のベッドの閉められたカーテンを意を決してぐいと開けた。消毒液の匂いがきつい病室の白いベッドには、頭にガーゼとメロンの包みのようなネット包帯を巻かれた坂道が目を閉じ安らかに横たわっていた。レンズに一筋、雷のようなひびの入った丸メガネが丁寧に畳まれ、供えるように枕の横に置かれている。
「さ、坂道……坂道……」
 巻島はベッドに駆け寄り坂道を確認する。まだ生きているみたいな、体だ……。
「な、なんてこった……」
 坂道の手を握った巻島は、ああ、と膝を崩した。



「……むにゃ……。あれ、ま、巻島さんっ??? な、なんでこんなところにいるんですか!!!」

 退屈ですやすや眠っていた坂道は、むくりと身を起こした。

***

「……鳴子くんったら、全くしょうがないなぁ。もう」
 彼の、早とちりなんです。ごめんなさい、ボクが代わりに謝りますね。……という坂道の話を総合すると、鳴子のツイートは慌てた結果の始末で、「坂道がバスと接触して倒れた」のは本当の事だが奇跡的な軽傷だけで済み、彼が杉元に向けて返事した「手術室前のベンチ」云々は「鳴子が単にちょうどそこに座っていただけ」らしい。――と、坂道は昼寝のために外していたメガネを掛けながら巻島にそう説明した。
「ボク、頭を打った時に気絶しちゃったので念のために入院したのです。でも、検査やMRI撮っても特に何も異常はなくて、明日にはもう退院できるって言われました。ここ、ケータイも使えないっていうから退屈で……」
 あっ、頭のガーゼですか? おでこを打ってちょっと縫った傷です。なんか大げさに見えちゃいますよねー、頭の怪我って。坂道はガーゼの端を軽くぺろっとはがして巻島に縫い跡を見せた。数針分の跡が痛々しいが、このくらいで助かったのだから儲けものだ、と小学生の頃から始めたロードで何度も何度も転んだことがあり、実は体中傷だらけの巻島はようやく安心した。

「それより、ボクのほうこそ聞きたいんですけど。どうしてここに来たんですか? 巻島さん、イギリスにいるはずなのに」
 急に声かけられて、昼寝から起きて。ボク、凄くびっくりしました。と坂道は逆に巻島に質問を返した。
「あぁ……。こっちに用事があって帰ってきてたついでにtwitter見ててさ、驚いたんショ、それで……ついでにここに来てみただけ。なんショ」
 巻島は自分のした行動を誤魔化した。まさか、『おまえのことを心配するあまりイギリスから飛んで帰ってきた』とは、絶対に、ぜったいに、言えない。

「でもおまえが無事で良かったヨ。……いやァ、ホッとしたらトイレ行きたくなってきたっショ。ちょっと失礼するぜ」
 フラフラとした足取りでリノリウム張りの静かな廊下に出た巻島は、
「よかった、よかった……。坂道が、無事で、何もなくて……」
 張り詰めていた気が抜けて、茶色の安っぽいベンチにドサリと腰を下ろした巻島は、瞳を閉じ、じわりと熱くなった目頭を長い指で押さえた。――神様、ありがとう、ありがとうございます、オレの坂道を助けてくれて。何もなくて本当に良かったです。本当に、ほんとうに、良かった……。緊張の後にやってきた安堵の果てに巻島の頬を流れる熱いものは暫くの間止まらなかった。

 ――そして、今日。遂に発覚してしまった、自分のこの坂道への特別な感情も受け入れるしかないということを巻島は胸の奥でひとり知った。あんな夢を見て泣いたのも、必要以上に坂道のことを気にかけていたのも、くも太郎の小さな縫いぐるみを大切に持っていることも、ジョンの直感を否定し続けたのも、飛んで帰ってきたことも、すべて……。
 歓びと安堵から廊下の隅のベンチでひととおり涙を流しきった後、まったく、先輩なのに格好悪い姿を見せちまうナ。と、トイレの洗面台の大きな鏡で巻島は自分の顔を確認した。目の下の粘膜をぺろりと剥く。紅くなってしまった瞳の縁は隠せないかもしれないが、「時差ボケで寝てないからっショ」とか言ってなんとか誤魔化すんだぞ、裕介。すう、はぁ、と巻島はいちど大きく深呼吸をすると、見た目の口角は上げていても内心は最後の試練を受ける修行僧のような真剣な心持ちで、もう一度坂道の病室のカーテンを開けた。

 戻ってくるの遅かったですね。と声をかけてきた坂道は、先程の巻島の言葉を一ミリたりとも疑っていないように見えた。
「あの……」
「何ショ」
 ベッドの上で半身を起こした坂道は腰の上まで覆った清潔な掛け布団をぎゅっと握りながら話しはじめた。
「あのっ。不謹慎かもしれませんが、ボク、ケガしちゃったけど、そのせいで巻島さんに会えたからいますごく嬉しいんです。……メガネはちょっと壊れちゃいましたけど」
 さっき、昼寝してた時にですね。ちょうど、巻島さんと一緒に峰ケ山に登ってる夢を見ていたんです。『でも、もう巻島さんはいないんだから、これは夢なんだ』って自覚してるっていう、なんだかとても悲しい夢でした。……それで、目が覚めたら巻島さんがボクの傍にいたでしょう?「えっ、どうしてここにいるんですか!?」ってビックリしたけど、それがボク、すごくすごく嬉しくって……。

 ここまでわざわざお見舞いに来てくれてありがとうございます。ぺこり。エヘヘ……。顔をへにゃっと崩して照れながら微笑む坂道を巻島はぎゅっと抱き締めて、短い髪をわさわさと撫でる。坂道の子どものような高めの体温が温かい、とても温かい、愛しいぬくもりだと巻島は強く感じた。
「ま、巻島さーん、いたい、痛いですよっ。でも、でも会いに来てくれてボクほんとうに嬉しいんです。これって、まだ夢の中の話じゃないですよね……」
 巻島の実在を確かめるように、坂道は巻島の背中に手を廻して二人はそっと抱きあった。静かな息遣いと心臓の音がとても近くに感じる。
(生きていて、また会えて良かった。ほんとうに良かった……やっぱり、こいつのこと好きなんだ、オレ)
 自分の気持ちを巻島は改めて自覚した。いつのまにか恋に落ちてしまっていたのだと、今日ようやく気づいた。坂道のちいさな体を一旦離した巻島は、次に坂道の両手をとって生涯一真剣な眼差しで今の胸の内を告白した。
「オレさァ。向こうの大学を卒業して仕事の目処が付いたら、日本に帰ってくるつもりだから。そうしたら、また峰ケ山で……いや、場所は別にどこでも良いんだ。その時は、また一緒に走ってくれないか、坂道」
 それまで、待っててほしいんだ。ちょっと時間かかるケド、等と巻島の口から堰を切ったように熱い気持ちがあふれる。
(オレ、何か変なこと口走ってる。ああ、バカだ、オレのバカ野郎……。そもそも坂道に好きとか嫌いとかさえ聞いてないってのに、こんな、プロポーズみたいな言葉はねェだろ……)
 熱い想いがおかしな方向に暴走して、胸の鼓動がはやる。かぁっと頭の天辺から足の爪先まで赤面した巻島は内心自分でも呆れながら、それでもこの告白を止めることが出来なかった。

「勿論、いいですよ。何時だってボク、日本でずっと巻島さんのこと待ってますから。ずっと待ってますから。きっと待ってますから」
 坂道は巻島の顔を見て、主人にしっぽを振る幸せな犬のように嬉しそうににっこり微笑んだ。この笑顔がオレの一番の宝物だ、と巻島は心の底から思った。

――世界の果てまで行ったって、手放せなかった宝物だ。

【おわり】
2013/03/15 七篠